カワグチ先生
僕が住んでいた地域の学校はそこそこ荒れていて、中学校に煙草の吸い殻が捨ててあったり、少年院に入る不良がいた。中学一年生の頃に僕のことをよく殴ったり砂にしていたやつが、中学二年生の頃に少年院に入ることが決まった時、僕は「よっしゃあ!」と喜びを声にしたらみんなに引かれたことがあった。呼び出しで腹パンや砂にされるのは当たり前で、スナック感覚にカツアゲされることも、空き缶を暴力で回収したり、まあ反社会的勢力の末端がやっているようなことはだいたい、僕がいた学校の札付きの悪い連中はやっていた。
そんな学校だったので教師は不良たちからめちゃくちゃ嫌われていたし、必要以上に普通の生徒たちを締め付ける教師たちは煙たがられていた。そんな教師たちの中に大部分の生徒たちから信頼を集めて、学校の清浄化に貢献した先生がいた。
それは僕が中学三年生の頃に担任になったカワグチ先生だった。ものすごく小柄なおばさんの先生で当時は40代後半ぐらいだったと思う。幽☆遊☆白書の玄海を思わせるなんとも不思議な人だった。僕がこれまでの人生で出会った人の中で中立・中庸属性と自信を持って言えるのはカワグチ先生ぐらいだ。
カワグチ先生は教師でありながら変わった価値観を持っていた。生きたいように生きて、死にたいように死ねばいい。自分と異なる考え方を持っていようが、それの生き方を誰かに強要しなければ、別にそれも在りと認める懐の広さがあった。だから、僕らのような普通の生徒も、円光をしていたギャルも、札付きの不良たちも、カワグチ先生の話だけには耳を傾けた。カワグチ先生はさまざまなことを僕たちに教えてくれたけれど、僕が一番覚えているのはある道徳の授業でのことだ。
10代で妊娠し出産した女の子の話をカワグチ先生はした。そうして、僕たちに感想を求めた。僕らの大部分は何も考えずに性交をして、妊娠した女の子を責めた。当時の僕はその女の子にすべて責任があるように思えたし、他の生徒たちもやっぱり似たり寄ったりの考えだった。だけど不良とギャルだけは、その女の子の気持ちがわかった。たぶん、別のレイヤを見ていたから、女の子の気持ちが理解出来たのだと思う。
カワグチ先生は言った。
「人は正しさだけで生きているわけじゃない。人が人を好きになってしまったら、こういう過ちを犯してしまうことがあるのよ。まだ若いから、この女の子の気持ちがわからないかもしれない。でも、歳を取って色んな経験をしたら、この女の子の気持ちがすこしは理解できるようになると思うよ」
あれからさまざまな経験をして僕は、人は正しさだけで生きているわけではないと知った。色々な挫折と出会いと別れを経て愚かな選択をしてしまう人の気持ちが心から理解できるようになった。カワグチ先生はこうも言っていた、「歳を取ってもこの女の子の気持ちがわからなかったら、それは精神的に未成熟だから恥じなさい」と。カワグチ先生に教わったことは僕の考えの根幹をなしている。正しさだけがすべてではないと僕は教えてもらった気がする。