誉れのない会話

 「ドーショ! ドーショ!」

 最近、仕事中、限界になると蒙古の人たちのようにアパートの一室で叫ぶ。人間とは不思議なもので、感情をなんとなく声にすると、ある程度ストレスが消える。

 たまに「誉れを忘れるでない」と言い誉れおじのモノマネをしたりしつつ、僕は仕事をしています。でも僕には忘れるほどの誉れあまりないのが悲しい。

 職場=家というのは、ものすごく便利なのだけど、秒でプライベートな空間が仕事場になるので、まったく緊張感が切れる感じがしない。アメリカ空軍でリーパーのオペレータがイスラムボンバーマンを爆殺して、業務引き継ぎをし子供のサッカーの試合を観に行って病む理由が身を持って理解できた。場に染み付く記憶というのは確かに存在している。

 世の中には適切な距離感というものがある気がする。そう考えると休日という休日なく、ずっと艦隊勤務の海軍の人たち、ものを運ぶ海運業の船員さんはすごいなと思ってしまう。僕には適性がなくて海での仕事は務まりそうにない。せめて水曜日に中休みがほしい。週休三日。三日を希望します。

 かつてゴリラの森の民だった頃、会社携帯を会社へと置いて帰るように上司に言われた。ノルマに厳しくて、ゴミ箱が凹んだり、机が物理的に割れたりすることがあったパワハラ役満な職場だったけれど、仕事との距離のとり方はそこそこ適切だった気がする(たぶん)

 たまに責任感が強すぎて会社携帯を自宅へと持ち帰って、休日も仕事をして病んで失踪してしまう人が出たり(夏季休暇から行方不明になったり)、なんどもジャンプして客が夜逃げして回収できず鬱になってしまったり、さまざま問題を抱えて別の世界へと旅立ってしまった人がいたけれど、そんな中「仕事が終わったら客のことを忘れろ」と言っていたAさんの言葉は概ね正しかった。Aさんも誉れはあまりなかったけれど。あの会社にいた人たち、誉れあったのかな? 思い出すとみんな冥人か蒙古プレイだった気がする。

 ずっと仕事モードのままだと人は死ぬ。ものすごくやり手のセールスで口が巧く女にもめちゃくちゃモテたAさんはいまどうしているのだろう。ぼんやりとそんなことを考える。よくAさんは僕にこう言った。

「おまえ話巧くねーからな、もっと雑談のテクニックを磨け」

 ずっとそんなことを言われた。退職する日にも「お前もうちょっと面白くなれ」と言われた。あの言葉はめちゃくちゃ僕の心に残っていて、直属の上司にかつて言われた「お前が面白い話ができねーのはおめーがつまらない人間だからだ」と同じぐらい、自分は喋りが苦手なんだなという傷跡が残った。

 あれから随分と時間は流れ、なんとなく雑談はできるようになったけれど、Aさんほど面白い喋りができるようにはなっていない。面白さとはなんだろう? 文章を書くたびに面白さの定義をよく考える。相手に面白いなと思ってもらうことは大変だ。会話文も本当にこれは生きている人が喋るような、自然な言い回しだろうかと考えてしまう。

 

 人間は難しい。どれだけ人と会って喋っても適切なボールが投げられたという実感がない。

 会話とは相手の反応を見て、投げるボールを変えてベストな球種を探すゲームなので、ここで、どれだけ投げられる球種があるか、相手の機微をどれだけ感じ取れるか、その二点が未熟だと面白い会話はできない。

 さらにボールを投げるタイミングがとても重要なのだけど、ここが理解できず何度も同じネタをインコのように繰り返す人を見ると、ちょっとつらくなってしまう。ああいう人は「喋りが巧くねーぞ」と指摘してくれる人がいなかったのかもしれない。

 今現在、これまでの人生で一番、会話をしていないので、ただでさえ苦手な喋りが錆びついている気がする。僕がしたい話は、誉れのない話なので可能ならオフラインでやりたい。感染症とかそういうの気にせずに、また馬鹿笑いしながら人とあって喋れるような場ができるといいなと切実に思ったりします。誉れない会話してえなあ。