あたって砕けてお終いだっていいじゃない。

 コロナウイルスが蔓延するようになって半年ぐらい会社に行っていない。というか感染症予防のため出社できる人数を制限しているので、会社へと出社できる人数というのは本当にごくわずかで、放射線状に広がるMAP兵器の射線上に人が座ってはいけないという出社ルールがあり、隣接するように人が座ることが禁止されているので、会社へ出社する人間はほぼいない。たぶん、今年は会社にほとんど出社せずに終わるのだろうなと部署の人たちと会話をした。

 つい最近、会社にちょっとだけ足を運ぶ用事があって、僕の部署が入っているフロアに入ったら休日のような人口密度だった。半年ぶりに足を運ぶ会社への道のりは、ものすごく変化をしていて、このユガを超えられなかった飲食店がいくつか消えていた。

 僕の勤務先は都内でも賃料が高い地域なので、自前でテナントの賃料を払っている飲食店にとって大変厳しい局面だったのだろう。会社に出社して昼ごはんを食べる客層が減ってしまったら、それこそ売上に深刻なダメージを被ったに違いない。地下フロアにあれだけあった飲食店はごく僅かなものになっていて諸行無常さを思い知った。

 飲食店の退去があまりに頻繁だったからなのか、案内のアクリルボードにビニールテープが貼られていた。この冬を越えることができず、地下フロアを去っていく飲食店が多いとデベも考えているのかもしれない。

 僕の会社は比較的、テレワークを随分と前から推奨していたこともあって、テレワークへの移行はスムーズだった。

 朝起きて、PCの電源を付けて起動するまでのあいだにざっと身支度をして、ご飯を食べながらメールとスケジュールを確認し、数件の会議を行いお仕事を淡々と進める。自宅で仕事をしていると、本当に必要なとき以外、椅子から立つことなく、場合によってはお昼を食べずにずっと作業をしてしまったりする。Apple Watchだけが立ち上がれということを教えてくれる。ありがとうApple

 一週間のうち会議以外、会話らしい会話がないまま仕事をする。会議で喋る内容は業務に関することなので、あまり頭を使わない。在宅勤務が良いことなのか、悪いことなのかわからないけれど、僕らは雑談で新しい発想が生まれたり、息抜きをしていたところがあったんだなという気づきがあった。

 またプライベートな空間へと職場が浸食してくるのが限界になって、ご飯を食べる場所を分けたり、頻繁にバイクでソロツーをするようになった。奥多摩周遊道路で人が壁に激突し、スクリーンが半分割れながらも「大丈夫です」と返事をする光景を目撃した。

 在宅勤務が始まった当初は空虚さを消すように、酒を飲んでいたのだけど体重が増えてしまったりしたのと、このままだと間違いなく大きな破滅が到来するのが確定枠になるという、虫の知らせがあって断酒をしている。

 楽しいから酒を飲むのではなく、つらさを消すように一人で酒を飲むようになったら、たぶん心が疲弊しているのだろう。アル中一歩手前まで行ってしまったときのことを思い出した。あのとき僕がアル中にならず、どうにか一般社会で生きているのは、どん底へと沈んだとき、そのままだと死ぬぞ、と声をかけてくれた人がいたからだ。ありがとうございます。

 そうした人がいなかったら、僕はきっとアルコールに依存し人生が終わっていたかもしれない。断酒をしたと言っても、根本的に抱えているストレスは変わらないので、どこか違う場所へと行きたい、誰も自分を知らない場所へと旅をして、アパートの一室で本を読んで、昼間と夕方に弁当を買いに行って、緩やかに死んでいくのもいいなという感情を抱くことがある。

 親しくしてもらっていた旧知の友人や知人たちは大部分が既婚者で(年齢を考えるとそうなるのも当然といえば当然なのだが)、彼ら彼女らは子持ちなので家族や子供のために頑張ると言いながら一生懸命働いている。ものすごく大変そうだし、しんどうそうでもあるけれど、そう言うみんなはどこか生き生きとしている。命を懸けてでも守りたいものがある人生はとても素晴らしいのだろう。

 こんな僕にも何度か結婚をする機会があったのだけど、相手に失望されてしまったり、相手の期待に応えることができず逃げてしまったり、相手に失望したりで結婚の機会を逃してしまった。

 もっと適当に結婚して子供を作らず、まずは試用期間を設けてみて、それでもだめなら離婚をすればよかったなと思うことがある。それが人として正しいのか、それとも正しくないのかわからないけれど、人生はあたって砕けてお終いだっていいような気がする。あたって砕けないと見えない世界は確実に存在している。