人を殴る人たち

 治安の悪い人たちはすぐ暴力を振るう。ここにまどろっこしい理由は存在していない。エンカウントの理由は「視線が合った」であったり「進路を塞いだ」であったり「挑発してきた」など理由は多種多様である。もちろん、半グレの人たちのシマ争いから闘争が引き起こされることは否定しないが、多くの場合は勘違いによるものが多い。

 彼らは認知が歪んでいる。ちょっと見ただけで、ガンをつけられたと判断してしまったり、誰かが笑っていることで自分が笑いものにされたと思ってしまったりする。僕は精神科医ではないので詳細に説明をすることはできないが、彼らはちょっとした行動を挑発行動として認識してしまうことがある。

 とにかく彼らは衝動的で我慢することができない人が多い。それは家庭環境から来るものであったり、恵まれない境遇からによるものであったりするのだけど、治安の悪い人たちは怒りの沸点がものすごく低い。

 笑って会話をしていたと思えば次の瞬間にキレて相手を殴っていることもある。衝動的にナイフを刺したりすることもある。彼らが人を殴る時、暴力を行使する時に難しい言葉を使うことはない。

「てめぇ!?」

「んだコラ!?」

「何見てんだァ!?」

「お前どこのモンだ!?」

「舐めてんのか!?」

 思い浮かぶのはこのぐらいの言葉だ。もっともあまり難しい言葉使っても相手をビビらせることができないので、あえて難しい言葉を使わないようにしているのかもしれない。

 僕が住んでいた地域はあまり治安がよくなくて彼らに殴られた。人目がある、人目がないは暴力を行使する理由に関係ない。人通りが多かろうが少なかろうが思い立ったら全力で殴りにやってくる。だから僕は道を歩く時も真ん中を歩かない、周囲を気にする。前から歩いてくる人を必要以上に見ないなどの対策が必要だ。あまり素行がよくない人たちが進行方向にいる場合は迂回をする。危険を察知していながらそれを無視することほど馬鹿なことはない。そうした危険を察知できず絡まれて殴られる人をたまに見る。

 そうした人と接点がなかった人たちの中には、夜道で携帯電話(スマホ)で通話をしながら歩けば安全だと思っている人が少なからずいる。もしも何かあった時、通話している相手が警察に通報してくれれば、自分は助かると思っているのかもしれない。

 でも、それは間違いだ。彼らは人を拉致する時、暴力を振るう時、相手の状況をあまり気にしない。そして警察の助けが来るよりも彼らが殴る方がはやい。もしかして彼らがあなたを殺害する方が遥かにはやいかもしれない。そのことはよく考えておく必要がある。

 どうしても彼らと話をする時はとにかく地雷を踏まないように気を使う。必要以上に丁寧に話す。難しい言葉、比喩表現は使わない。わかりやすく喋る。相手を持ち上げすぎるのもよくないが、舐めすぎるなんてのはもっての他だ。ヤクザや暴力団の人たちが異常なまでに礼儀作法にこだわるのもそこらへんに理由があるのだと思う。とにかく、注意をして注意をする。「自分はあまりものを知らない未熟者ゆえ、不作法がございましたら大変申し訳ございません。至らぬ点があるかと思いますが何卒、よろしくお願いいたします」そんな言葉をある場で聞いたことがある。それでも地雷は爆発する時は爆発し人は殴られる。難しい。

 もちろん、頭の回転がよくて、恵まれた境遇で、学もあって、それでも治安の悪い人たちの群れに加わる人もいるのだけど、大部分の人たちは何かしらの原因で社会から溢れてしまって、その行き場のない感情を誰かにぶつけているだけに過ぎない。

 でも社会的に虐げられているからといって、他人への暴力が容認されるわけではない。人間の精神は非可逆性で一度歪められてしまうともとに戻ることができない。彼らも人生を歪められた被害者ではある。彼らは自分たちが損しているのだから、ちょっとぐらいのズルなら許されるはずだと思っていたりする。

 自分はどこまでも被害者で加害者という意識がない。人間は誰しもが被害者であり加害者である。それは僕を含めてすべての人間に言えることなのだけど、彼らはどこまでいっても被害者でしかない。だから相手を傷つけることに躊躇がないのだろう。不当に自分がキツい状況におかれている。ちょっとぐらいの暴力行為や簒奪は許されると判断してしまうのかもしれない。僕のいた地域で凶悪なことで知られていたAくんは、少年院へと行った。でも、少年院から帰ってきても変わらず凶悪なまま巨大な台風のように暴力を行使した。

 だけど人は出会いによって変わることができる。治安の悪い人たちも良い出会いがあって、努力することができれば考え方を改めることができる。考え方を改めることができれば行動を変えることができる。

 ただ逆説的に言ってしまえば、良い出会いがなければ人は変化することができない。そして、良い出会いがあっても本人が主体的に行動しないかぎり人は決して変わらない。能動的では行動は決して変わらない。それは僕を含めてすべての人間に言えることだ。本当に人間は難しい。

 不良から校正して社会からこぼれ落ちてしまった人たちを救うために尽力している人もいれば、薬局を売りさばいて消えてしまった人もいる。たぶんヤクザになった人も、半グレになった人もいる。詐欺師になって逮捕された人間もいる。

 彼らの差は何だったのだろう? 人間の善悪とはなんだろうか?そのことを最近よく考える。たぶん、僕が死ぬまでずっと考えていくことなのだろう。そして、その問いに答えがでることはないのだろう。でも、そのことを考えていくことは必要なことなのだ。たぶん。